アリアガレージ

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フェラーリフェラーリ 308 GTB

本体価格(消費税込) SOLD OUT
年式 1981年/昭和56年
走行距離 21600km
ロッソチアロ(Salchi/599.5.190)
車検 2年付
乗車定員 2名
修復歴
ミッション 5MT
ハンドル LHD
車両 並行
駆動 MR

ベージュインテリア スティールボディ EU仕様GTB ドライサンプ リップスポイラー アロイホイール TRXタイヤ スペアタイヤ付 ETC フルオリジナル ワランティ・取説・ブックレット・工具・スペアキー  

支払総額には自賠責保険料、税金、登録料に伴う費用が含まれています
※掲載月現在、神奈川県登録(届出)で店頭納車の場合の金額となります
お客様の御要望に基づくオプション等 ( コーティング・希望ナンバー・希望ナンバー申請代行・納車前点検整備・保証継承点検整備・ディーラーによるオーナーチェンジ・車庫証明代行 ) の費用は含みませんのでご注意ください

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フェラーリ・308GTB/GTSは、イタリアの自動車メーカーのフェラーリが1975年から1985年にかけて製造、販売したリアミッドシップエンジン・後輪駆動のスポーツカーである。

1975年に、フェラーリはパリ・サロンにて「308GTB」を発表。1973年のパリ・サロンにて先行してデビューした2+2クーペディーノ308GT4をベースとした2シーターのミッドシップ・スポーツカーとしてデビューしている。GTBのBはベルリネッタの意。

美しいラインを持つクーペ(ベルリネッタ)ボディのスタイリングはピニンファリーナによる。デザイナーはレオナルド・フィオラヴァンティで、彼は個人的に今も308を所有し続けていると雑誌のインタビューで答えている。

初期生産モデルはボディ材質にFRPを採用していた。これはイタリアの労働ストライキにより当初予定していたスチール製ボディの生産が間に合わなくなったためである。当時のFRPによるボディ作成の技術は低く、FRPモデルが1,090kgに対し、スチール製モデルが1,330kgと210kgしか差はなくイメージほど軽量ではない。ヘッドライトには当時のスーパーカーの代名詞ともいえる丸型2灯式のリトラクタブルヘッドライトを採用していた。

パワーユニットは2,926ccのV8 DOHCで、車名の「308」はこの排気量約3,000cc 8気筒エンジンを搭載していることに由来している。デビュー当初の2バルブモデルはウェーバー製キャブレターを搭載し、最高出力255PS/7,000rpm、最大トルク30.0kgf·m/5,000rpmを発揮した。V8エンジンを搭載しているとはいえそこはフェラーリ、大きな吸気音とハイトーンを奏でるエンジンおよび排気システムなどによりフェラーリ・ミュージックは健在で、その豪快にして官能的な音もセールスポイントの一つであった。

1977年のフランクフルト・ショーにてデタッチャブル・ルーフ(タルガトップ)を採用した「308GTS」が追加発表された。GTSのSはスパイダーを意味している。このGTSの追加に合わせて、ボディはスチール製に改められた。

1980年、2,000cc以上のガソリンエンジン車に対する税金が高いイタリアの国内(節税)仕様として、排気量1,991ccの「208GTB」「208GTS」が発売され、同様の税制のニュージーランドでも販売(右ハンドル車)された。しかし208GTB/208GTSは顧客からパワー不足を指摘され、1982年に208GTBがターボチャージャーを装着した「208GTBターボ」に、1983年には208GTSが「208GTSターボ」に置換された。生産年次により、高年式の208ターボは328の外装に準ずる。 当時の日本もいわゆる「3ナンバー税制」の最中で2,000cc超え(排気量に関係なく全幅1,700mmを超えると「3ナンバー税制」の対象であった)は高額課税ではあったが、正規輸入は行われなかった。ただし、ごくごく少数が並行輸入されている。

308 クワトロバルボーレ
一方で、年々厳しくなる排気ガス規制に対応するため、1980年には燃料供給装置をキャブレター式からインジェクション式(Kジェトロニック)とした「308GTBi」「308GTSi」に置換えられ、翌1982年にはエンジンヘッドを4バルブ化したモデル「クワトロバルボーレ」(Quattrovalvole 、イタリア語で4バルブの意)が追加された。

1985年に、フランクフルトモーターショーにて後継車の「328」が発表され、バトンタッチするかたちで10年に渡る生産・販売を終了している。


ミケーレ・アルボレート(Michele Alboreto, 1956年12月23日 - 2001年4月25日)は、イタリアミラノ出身のレーシングドライバー。F1やル・マン24時間レースなどで活躍した。
経歴
F1デビュー前
1978年にイタリアF3に参戦を開始。1980年ヨーロッパF3でチャンピオンを獲得。
ティレル時代
1981年
ティレルよりF1デビュー。この年はノーポイントに終わった。
1982年
第2戦ブラジルGPで4位に入り、初入賞。続くアメリカ西GPでも4位に入ると、第4戦サンマリノGPでは3位入賞、3戦連続のポイント獲得と共に初表彰台を達成した。その後何度かの入賞を経て、最終戦ラスベガスGPでF1初優勝を飾った。
1983年
第7戦デトロイトGPで優勝し2勝目。この勝利は、フォード・コスワース・DFVエンジン(スペックは進化バージョンのDFYエンジン)の最後のF1勝利(通算155勝目)であるとともにティレル最後のF1勝利(通算23勝目)でもある。これを含め入賞は2回、リタイヤは15戦中8回という不本意とも言える結果だったが、ターボ化の波に乗り遅れ、資金面でも貧弱なティレルでの活躍は高く評価された。そしてエンツォ・フェラーリに才能を認められ、フェラーリへの移籍が決定。1973年のアルトゥーロ・メルツァリオ以来となる久々のイタリア人フェラーリドライバー誕生に、地元の期待は高まった。

フェラーリ時代のアルボレート
(1985年ドイツGP)
1984年
チームのエースドライバーとして加入したアルボレートは、第3戦のベルギーGPで初のポールポジションを獲得、決勝でも独走での優勝を飾る。この年は16戦中8回のリタイヤを喫すが、6度の入賞を記録し、選手権4位となった。この活躍により、往年の名ドライバーアルベルト・アスカリの再来と呼ばれ、ティフォシ達の人気者になった。
1985年
マクラーレンのアラン・プロストとチャンピオン争いを繰り広げ、F1生活でのハイライトと言われる年となった。アルボレートは第9戦ドイツGPでシーズン2勝目を挙げ、ランキングトップに立つが、第11戦オランダGPにてプロストに逆転を許した。その後アルボレートは、それまで2度のリタイアを除いて全てのレースで表彰台と安定していた成績が突然乱れ、最終戦まで5戦連続ノーポイントに終わった(リタイア4回)。結局この終盤での失速が響き、ランキングは2位に留まった。このドライバーズチャンピオンシップ2位は結果としてキャリアピークの成績となった。
1986年
チームが低迷期に入り、フェラーリ・F186も戦闘力を欠いていた同年は入賞4回、2位表彰台が1回。ランキングでもチームメイトのステファン・ヨハンソン(ランキング5位)を下回る8位に終わった。
1987年
完走できれば入賞・表彰台を獲得でき、高い性能を有していたがシーズン中盤までは熟成不足だったフェラーリ・F187のトラブルによるリタイアも多く、8戦連続リタイヤを含む10度のリタイヤを喫した。マシンの熟成が進んだ終盤に2連勝したチームメイトゲルハルト・ベルガーが台頭、2年連続でランキングでチームメイトに敗れる(ベルガー5位、アルボレート7位)などエースドライバーの座から追いやられる格好となる。
1988年
マクラーレン・ホンダMP4/4の圧倒的な強さにフェラーリは歯が立たず。8月には総帥エンツォ・フェラーリが91歳で死去。その直後の開催となった第11戦ベルギーGPではアルボレートはレース序盤からマクラーレンのプロストとセナに食いつき3位を走行し続け、レース終盤35周目までその位置をキープする亡きエンツォに捧げる力走を見せたが、ターボエンジンが白煙を吹きコース脇にストップ。マシンを降りたアルボレートが悔しさから手に巻いていたテーピングを剥がし投げつける様子がTVカメラで映し出されており、サーキット内のプレスルームでは「あの紳士的なアルボレートがこんなに悔しそうにするとは」と驚きの声が上がったという。第12戦イタリアGPでは優勝したベルガーに次ぐ2位でフィニッシュし、フェラーリのモンツァでの1-2フィニッシュに貢献。ファステストラップも記録している
フェラーリチームのエースはベルガーとなり、アルボレートはデザイナーのジョン・バーナードとの対立が深刻化(フェラーリ・639のシャシーコンセプトとセミオートマチックトランスミッションをめぐってバーナードと大喧嘩した、と自身で語っている)。チームは新たにナイジェル・マンセルと契約。アルボレートはこの年限りでフェラーリを離れた。
ティレルへの復帰 ラルースへのスポット参戦
1989年
古巣のティレルに6年ぶりに復帰する。しかし契約金等はなく、マールボロからの支援と獲得賞金の何パーセントかが手に入るだけだった。この年ティレルはハーベイ・ポスルスウェイトの手による非力ながらも洗練されたマシン、ティレル・018を使用。サンマリノGPは予選落ちとなったが、モナコGPで5位入賞、第4戦メキシコGPでは3位表彰台を射止めた。
このころ、足の故障が悪化したジョニー・ハーバートの解雇を考えていたベネトンから移籍の誘いを受ける。しかしベネトン側が資金の持ち込みを要求したことから交渉が難航。そのうちにベネトンとの交渉の話が外部に洩れたことから、ケン・ティレルは代わりのドライバーとして新人ジャン・アレジを確保、ベネトンもエマニュエーレ・ピロと契約したことからシートを失ってしまう[4]。
その後2戦欠場を経て、スランプに陥っていたヤニック・ダルマスの後任を探していたラルースのチーム代表・ジェラール・ラルースから声が掛かり、第9戦西ドイツGPからラルース・ローラ・LC89の29号車のシートを得た。ラルースはマールボロのライバルであるキャメルからの支援を受けていたことから、長年支援を受けてきたマールボロとの契約を打ち切ってのラルース加入であった。完走は第13戦ポルトガルGPの1回に留まった(11位)。4回のリタイヤを喫し、ラスト3戦は決勝に進むことができなかった。特にスペイングランプリとオーストラリアグランプリは、予備予選すら通過出来ずに終わっている。
フットワーク時代
1990年
前年の不安定な状況を繰り返したくないと、前年に度々入賞し安定感のある中堅チームであったアロウズに1stドライバーとして契約[5]。日本の運輸会社「フットワーク」がメインスポンサーとなりチームの財政基盤の安定が期待されたが、トップチームと比して非力な存在となっていたDFR・V8エンジンと、前年度シャシーの熟成版であったアロウズ・A11Bは戦闘力が低く、チームメイトのアレックス・カフィ共々3度の予選落ちも喫した。全16戦中8戦で完走を果たしたが、カフィがなんとかモナコGPでポイントを獲得したのに対し、アルボレートの最高位は9位で入賞には遠いシーズンとなった。

1991年
鳴り物入りでのF1復帰となるポルシェのワークスV12エンジンを獲得し、斬新なフロントノーズを持つニューマシン「FA12」に多大な期待が掛けられたが、このV12エンジンは重量が非常に重いだけでなく、パワーや信頼性にも欠けており、開幕戦から競争力に欠け予選を通過できない苦戦を続けた。序盤の6レース限りでポルシェエンジンを諦め、第7戦からは前年使用していたフォードDFRエンジンを引っ張り出し搭載する事態となった。「ポルシェV12用に設計したのにV8エンジンを載せてるから重量配分がめちゃくちゃ」とマシンを語る状況[6]でアルボレートは終盤に2度完走したに留まり、最高位は豪雨のため中断終了となった最終戦オーストラリアGPで記録した13位と散々なシーズンに終わった。この年の後半から予備予選の出走義務が課され、1989年のラルース時代以来2年ぶりの屈辱を味わった。なお翌年前半も予備予選に出走しているが、後述の通りポイントを獲得したため後半から免除されている。なおこの年はベルギーグランプリとイタリアグランプリで2度予備予選落ち(ラルース時代に2度予備予選落ちの経験があるため、通算4度)を喫した。予備予選落ちを経験した優勝経験のあるドライバーも、アルボレートだけである。
1992年
チームは新たに無限ホンダV10エンジンを獲得し、新シャシー「FA13」での参戦。フットワーク社がF3000時代から支援する鈴木亜久里がチームメイトとなった。実質上亜久里がファーストドライバー待遇であったため、昨年後半に続き、予備予選の出走義務を課された(アンドレア・モーダの欠場により1、2、8戦目は中止)が、前年より明らかに速いマシン及びアルボレート本人が好調で予備予選は全戦通過。亜久里がリタイアや予選落ちをする中、アルボレートは第3戦ブラジルGPで6位入賞し自身1989年以来となる久々のポイントを獲得すると、第4戦スペイン・第5戦サンマリノと連続で5位に食い込み3戦連続入賞など状況が整えば速さが発揮できることを示した。全16戦中14戦を完走し、前年の最終戦からこの年のベルギーGPをエンジントラブルによりリタイアするまでの12レース連続完走も達成。7位完走が16戦中6回などあと一歩で入賞を逃す(当時は入賞ポイント獲得は6位まで)レースも多かったが、この年最も多くの周回数をこなしたF1ドライバーとなりその実力が再評価される。しかし第15戦日本GP直前に、チームオーナー大橋渡の後押しがあった亜久里を来季も残留させ、同年のSWCでプジョー・905をワールドチャンピオンに導いたデレック・ワーウィックと新たに契約したことを発表。好成績を残したアルボレートを同シーズン終了をもって放出した。
ローラ、ミナルディ時代、引退
1993年
前年の活躍がありスクーデリア・イタリアのシートを確保した。しかしこの年に使用したローラ製シャシー「T93/30」はホイールベースが3030mmと長大すぎる欠点があり、予選通過にも苦しむ出来であった。搭載するフェラーリV12エンジンとのマッチングも最悪であった。本家フェラーリも大不振のシーズンであり「カスタマーエンジン」はそれに輪を掛けたようにパワーが無く、5回の予選落ちを喫し決勝での入賞は一度もなかった。この年終盤には同じく資金難にあえぎF1参戦危機となったミナルディとのチーム合併へ向けた作業が本格化し、第14戦ポルトガルGPでヨーロッパラウンドが終了すると、スクーデリア・イタリアは終盤2戦(日本・オーストラリア)の渡航費用を捻出できずF1から撤退したため、アルボレートも欠場となった。

同年シーズン終了後の11月、リカルド・パトレーゼと契約終了し翌年に向けてエースとなったミハエル・シューマッハのチームメイトを探していたトップ4チームの一角であるベネトンからテストドライブのオファーを受けた。12月13日からカタルニア・サーキットでベネトン・B193を4日にわたって走らせ、延べ222ラップを担当。ベネトンのオーナーであるイタリア出身のルチアーノ・ベネトン(英語版)は、イタリア人ドライバーであるアルボレートの獲得を希望し、シューマッハも若いチームメイトではなく経験豊かなアルボレートの加入を強く推していた。この合同テストではJ.J.レートもオーディションとしてベネトンで走行しており、ベストラップ(アルボレート1分19秒77、レート1分18秒66)で1秒以上アルボレートを上回ったレートがベネトンに選ばれ、アルボレートはこのあと母国のミナルディと交渉することになった。また、ミカ・ハッキネンのパートナーが決定していなかったマクラーレンのロン・デニスともかなり交渉していたという。

ミナルディ時代(1994年モナコGP)
1994年
トップチームのシートは得られず、結局前年所属したスクーデリア・イタリアと合併したミナルディから参戦することになった。ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死亡事故が発生した第3戦サンマリノでは、決勝レース中にタイヤ交換を終了したアルボレートの後輪がピットアウト時にホイールごと外れてしまい、高速で転がったタイヤホイールが他チームのメカニックにぶつかったため複数の負傷者が出てしまった。この事故はそれまで無制限だったピットレーンでの制限速度規制をF1に導入するきっかけとなった。第4戦モナコではサバイバルレースを生き残り、6位入賞を果たす。しかし、その後はミナルディ・M194の非力さもあり目立った活躍は出来ず、この年をもってF1からの引退を発表した。

事故死
その後はインディやル・マンなどに活躍の場を移し、1997年ル・マン24時間耐久レースではトム・クリステンセン、ステファン・ヨハンソンと組み優勝に輝いた。しかし2001年、ドイツのラウジッツリンクにてル・マン24時間耐久レースのために行っていたアウディ・R8のテスト走行中にタイヤがバーストしクラッシュ、ほぼ即死であった。44歳没。

エピソード
フォルツァ・ミケーレ!
イタリア人ファンにとっては「イタリア人が運転するフェラーリが優勝する事」が唯一最大の願いであり、そのファンの中でもミケーレ・アルボレートはイタリア人ファンに愛された。これにはミケーレの不運な境遇、超一流のドライビングテクニックに対する同情・賞賛がある。そのため、イタリア国内で行われるF1グランプリにはティフォシと呼ばれるフェラーリ熱狂支持者が多数訪れるが、そのティフォシ達が絶叫する言葉は常に「フォルツァ・ミケーレ!(ミケーレ頑張れ!)」であったと言われている。

テクニック
F1カーがまだマニュアルトランスミッションを採用していた1980年代、アルボレートは「世界一のシフトチェンジテクニックを持つドライバー」といわれていた。F1ドライバーとして自身がもっとも脂がのっていた時期とフェラーリの低迷期が重なってしまい、成績そのものはさえなかったが、ドライビングテクニックを評価する声は多かった。

ヘルメットカラー
愛用のヘルメットは青地に太い黄色の一本輪で、尊敬していたF1ドライバー、ロニー・ピーターソンのヘルメットカラーをモチーフにしたデザインだった。1986年にはピーターソンのトレードマークであったバイザー上部にヒサシ付のヘルメットを使用した[17]。

2代目フライング・ミラン(空飛ぶミラノ人)
1984年の活躍により、「アルベルト・アスカリの再来」と呼ばれ一躍人気者になったアルボレートだが、その彼もアスカリ同様、出身地がミラノであることから、アスカリと同じく「フライング・ミラン」とニックネームを付けられた。 余談だが、これまたアスカリ同様アルボレートも典型的な先行逃げ切り型タイプであり、1度トップに立つ(またはポールポジションを獲得する)とその後はその座を守り続けて優勝というパターンが多かった。

エンツォからの寵愛
フェラーリ入りを決めたのは、自身がイタリア人であることだけでなく、エンツォ・フェラーリから寵愛を受けたことだという。事実、エンツォは、妻と子どもの居たアルボレートに、4シーターにカスタムしたフェラーリの市販車をプレゼントしたという。しかし、1988年にエンツォの容態が悪化し死去すると、成績もベルガーに先行される事が増えていたアルボレートは後ろ盾を失い、同年限りでフェラーリから放出される憂き目に遭うこととなった。

人物
非常に義理堅い人物であった。フェラーリで活躍していた1986年当時、ボロボロのホテルに入る所を川井一仁と今宮純が目撃。アルボレートはこのホテルにわざわざご飯を食べに来たのだと言う。ホテルの女性オーナーも「あらミケーレ!よく来たわね!」と喜んでいたという。アルボレートは昔、このホテルには何度も来ていたのだという。

フェラーリ所属最終年となった1988年の夏には、翌1989年に向けて複数チームからオファーがあったが、他のチームのオファーは断り(フェラーリ移籍が決まったナイジェル・マンセルと入れ替わる形で)ウィリアムズとの交渉に一本化し、最終段階まで進んでいたが土壇場でウィリアムズ側から一方的に破棄された(ウィリアムズと新たにエンジン供給契約をしたフランスのルノーエンジン搭載に不可欠であったフランス語を話せるティエリー・ブーツェンを起用することが優先され、チームがリカルド・パトレーゼの残留を選択したため)。アルボレートは「イタリアGP前にパトレーゼとブーツェンが正式発表された時、ただただ驚いた。その瞬間から僕は酷い苦境に立たされた。来年ウィリアムズに乗ることは決まったと信じていたから、イタリアGPまでの2か月間他チームとは全く交渉を絶っていた。突然1989年に乗るマシンが無くなってしまったなんて」とその時の心境を吐露している。夏にアルボレートにオファーをしていた他のチームは既に別のドライバーで空席を埋めており、このためアルボレートはまだ空席を残していたが資金難で苦しい状況だった古巣・ティレルと契約した。

1989年のティレルでは、開幕時にチームスポンサーが無く、アルボレートが個人的に支援を受けていたマールボロたばこからの資金も重要なものだったが、6月カナダGP終了後にオーナーのケン・ティレルからアルボレートに電話が入り「チームは今週からキャメルがスポンサーについてくれることになった。今後もティレルで走りたいのであれば、君とマールボロとの契約はすぐに破棄してほしい」との内容だった。アルボレートは「僕は今までのキャリアでマールボロから大きな支援を受けてきた。ケンはそれを知ってて今季僕と契約しておいて、今回何の相談も無く急に一方的なこんな電話をしてきて、こういうやり方に僕は大いに気分を害している」とコメント。アルボレートがマールボロブランドを持つフィリップモリス社に事の顛末を報告すると、マールボロの担当者は「君のキャリア継続に重要なことだから、スポンサーフィーを返したりしなくて良いし、何も気にせずキャメルカラーのマシンに乗っていいよ」と寛大な言葉を掛けられたが、これを聞いたアルボレートは自分が身を引くべきと考えティレルを離れた。こうして一度はF1シートを喪失したが、1ヵ月後、結果的にキャメルの支援を受けるラルースへと加入することになった。

1993年オフにはベネトンの空席シートをかけてJ.J.レートと同じ合同テストに参加する状況となり、トップチームのシートを争うライバルとなったが、同テスト中にまだ若いレートに話し掛けディスカッションをし、走行後取材では「僕とJ.Jがマシンを取り合って喧嘩するわけじゃないし、僕も彼も十分に速いってことはもう誰もが知ってると思う。どちらが選ばれるかはチームの判断で、それはチームに任せるよ」[11]と話し友好的な関係を築いていた。

趣味
趣味は「F1でレースすること」と公言し、フェラーリを離れて以後、他カテゴリーの好条件のオファーがあっても、低迷するチーム状況で不遇にあってもF1でレースすることにこだわって走り続けた。不遇でも明るさは失わず、1993年にナイジェル・マンセルがインディカーに転向した際にインディ仕様のローラ・シャシー「T93/00」に乗り優勝するなど好走を見せ、自身がドライブするF1用のローラ・シャシー「T93/30」はF1最下位に低迷する状況をして「僕はもう、インディドライバーと呼ばれているよ」とジョークを言っていた。また、1993年オフのベネトンテスト(前述)後にベネトンのシートを得られなかったら?との質問にも「ベネトンのテストドライバー就任は全く考えていない、僕はF1でレースがしたいんだ。F1ドライバーとしてまだまだ良い仕事ができると思っている。テスト走行でのF1ドライブも好きだけど、レースがしたいね」とコメントし、レギュラーシートを求めてミナルディに移籍した。

プライベートでは読書も趣味であった。

死してなお・・・
フェラーリを去った後も「エンツォの寵愛を受けた最後のドライバー」として、ティフォシ達に敬愛、尊敬されていたアルボレートは、アウディのル・マン24時間レース事前テスト中に事故死した後に行われたF1グランプリのスタンドで、その死を悼んだティフォシによって喪章を付けたカバリーノ・ランパンテのフラッグを掲げ、ミケーレコールが行われた。また、1985年西ドイツGPで果たした優勝は、30年以上が経過した2019年時点でも『フェラーリで優勝した最後のイタリア人ドライバー』の記録となっている。

リサイクル料金は預託済だが表示価格に含まれていないため購入時に別途必要となります。

※自動車リサイクル法とは? 自動車リサイクル法とは、廃車になった使用済みのクルマから出る有用資源をリサイクルし、環境問題への対応を図るための法律として、2005年1月より施行されました。クルマを解体する際に回収や再利用の難しい、フロンやエアバッグ、シュレッダーダストなどを自動車メーカーが責任を持って回収することになり、その処理費用をユーザーが負担することになっています。

>> (財)自動車リサイクル促進センター

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